新著紹介
The Geometric Phase in Quantum Systems
著者:A. Bohm, A. Mostafazadeh, H. Koizumi, Q. Niu, J. Zwanziger (Springer, 2003)

 

量子系を制御している外部パラメータをゆっくりと変化させ,ある時間を経てパラメータを初期値に戻したとき,状態ベクトルは完全には戻らず,パラメータ空間中の経路の幾何学的形状だけに依存した位相の変化を生じる.この位相を幾何学的位相という.

幾何学的位相は,1983年にベリー(Berry)とサイモン(Simon)によって明確に定式化され,その後のBerry phaseブームをもたらした.本書の著者らも指摘しているように,幾何学的位相はベリー,サイモンによって定式化される以前から,さまざまな場面で人々に気づかれていた,あるいは見逃されていた.古くは1928年にボルン(Born)とフォック(Fock)が量子力学の断熱近似を論じたときに幾何学的位相を見つけるチャンスがあったが,見逃されていた.幾何学的位相はシュレディンガー方程式に始めから組み込まれていたものであり,それに注目することを新発見と言えるかという議論はあり得るが,量子系に普遍的な現象としてベリーとサイモンが明確に捉えたことの意義は大きいだろう.例えて言えば,遠心力やコリオリ力といったものはニュートンの運動方程式に座標変換さえ施せば導かれるのだからニュートン力学に織り込み済みの現象ではあるが,普遍的な現象として注意を引くのと同様のことだろう.

本書はベリー,サイモン以降の幾何学的位相に関する研究を網羅した,本格的な自己充足的な書物である. 5人もの共同執筆者を擁しながら系統立ったプレゼンテーションに成功していると言える.著者たちの所属が米国,トルコ,日本の3ヶ国,4つの大学に分かれていることを知ると,このコラボレーションの成功に感嘆する.

本書は14章の本文と2つの付録から成る.第1章序文に続いて第2章ではハミルトニアンの断熱変化に伴う幾何学的位相について解説している.第3章では磁場中のスピンの幾何学的位相について丁寧に論じている.回転磁場中のスピンのシュレディンガー方程式の厳密解と断熱近似解とを比較する議論は教育的である.第4章では断熱近似が成り立たないような場合でも幾何学的位相は生ずるというアハラノフ・アナンダン(Aharonov-Anandan)の理論を解説している.第5章は数学的な道具としてのファイバー束とゲージ理論の解説に当てられている.第6, 7章ではゲージ理論の立場から幾何学的位相をホロノミーとして定式化し,非アーベル群の場合にも拡張している.第8, 9章では,古典論的外部パラメータの人為的変化に伴う幾何学的位相ではなく,外部自由度も量子論的なダイナミクスに従う系に現れる幾何学的位相について議論を展開する.例として,分子内の電子を原子核にとっての「外部環境」とみなすボルン・オッペンハイマー近似において,電子の状態変化が原子核にはある種のゲージ場として感じられることを示している.第10, 11章は幾何学的位相の実験的検証についての解説である.また,幾何学的位相といえば通常は離散エネルギー準位を持つ系において簡潔な議論がなされるが,第12章ではバンド構造を持つ固体中の電子においても幾何学的位相ないしゲージ場の働きがあることを解説する.第13, 14章では幾何学的位相の固体物理への応用のハイライトとして整数・分数量子ホール効果を解説する.付録Aは多様体論とリー群論の定義集であり,付録Bは分子の対称性の分類に必要な点群の表現論とヤーン・テラー(Jahn-Teller)効果についての手際よくまとまった解説である.

総じて教育的配慮が行き届いており,この分野についてまとまった知識を得ようとする大学院生,研究者に最適の一冊であろう.欲を言えば,量子計算に関わる幾何学的位相の最近の研究についての解説が盛り込まれればなおよかった.

 

評者:谷村省吾
日本物理学会誌2005年9月号, p.744 に掲載.

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